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映画「コドモのコドモ」 [書評・映画評]

コドモ.jpg小学5年生が妊娠出産するという物語。
ロケ地となった秋田県能代市では、映画撮影反対の新聞投書がきっかけになって賛否両論の大論争が勃発したとか。最終的には映画に理解を示した市長と教育委員長の後押しで完成したそうだ。

主人公春菜を演じた甘利はるなという子はオーでションで選ばれた、これが最初のずぶの素人だとか。この後公開の「豚がいる教室」でもヒロインを演じているとか。豚ではないが。姉役の谷村美月にどことなく似ていることから選ばれたのかとも思ったり。
もっとも映画では彼女が最初毛嫌いをしている優等生美香の方がずっと光っているし演技もうまい。演ずる伊藤梨紗子という子は、かなり知的な美形で教師お気に入りの委員長役、後にみんなのリーダーとして信頼をいっしんに受ける役がぴったりはまっている。

麻生久美子演ずる東京から来たばかりの担任教師は理論ばかりが先走って何の役にもたっていない。保護者ばかりか子供達からも信頼されず、普通はこういった場合、最後にはしっかり子どもとの絆が強くなるものなのだが、この映画に限っては最後まで子どもとつながらない、ダメ教師のままで終わってしまった。子どもに責任はない、すべて自分の責任だと保護者集会で言い切るが、どう責任を取るのか突っ込まれても答えられない。学校を辞めることになって子どももそのことを知るのに、辞めないように止めるのは一人もいない。

大人は誰もそのことを知らずに後で大騒ぎ。事態を冷静に受け止めて実行したのはクラスメイトたちだけだという。大人では主人公の祖父母が理解を示す。臨月になってそのことを知った祖母は自分が守ってあげるときっぱり言い切るし、生まれた赤ん坊を最初に抱いて家に迎え入れたのはボケが入り出した祖父だった。

高校生の姉の友人が妊娠して中絶のためのお金集めで悩んでいる中で、自分と同じだと言う主人公の言葉の意味がわからない。ラストで彼女と彼氏が複雑な思いで出てくるのも印象深い。彼氏役の柄本君が一言のセリフもないのが意味深でいい。小学生達がしっかり現実を受け止めたのに対して自分たちはどうだったのか複雑な思いだったろう。

結果的に委員長の美香が一番格好良い。優等生故にある意味クラスでは煙たがられる存在なのに、担任の無力さ、無理解さに切れた瞬間先頭立って反旗を翻した。その瞬間、荒れていたクラスは彼女を中心としてまとまっていく。主人公が妊娠していることを一番最初に知って一番味方になったのも、クラス全員が知ることになってみんなに協力を呼びかけたのもすべて美香の力。担任は彼女たちが投げかけたサインをまるで受け止められなかった。

産婦人科医を父に持つミツオは親の職業が嫌で仕方がなかったのに、同級生が妊娠と言うことで初めて親の仕事を理解し、門前の小僧ならぬみごとに親の仕事を受け継ぐ役を果たすのも良い。クラスメイト一人一人にとって、生きるとは命とはをしっかり学び取った貴重な経験なのに親たちはそういうことを理解することはないのだろう、ミツオの父以外には。

大人の社会では「責任」という言葉しか出てこない。相手の家族は責任を取らざるを得ない状況に追い込まれる。自分のクラスの子供達をまるで理解できなかった担任教師は言うまでもないが、窓口で責められるだけの教頭も大変だ。出演ラストシーンでの呆然とした表情。彼も責任を取らされるのだろう。

現実にはありえない出来事ばかりで作っているから、子供達だけで出産までやってしまうということになってしまうのだが、この後の現実は考えたくもない。原作は12年後が描かれているそうだが、映画は1年後で止めているのもそれでいい。
こういう映画こそ文科省推薦映画で全国上映するべきなんだろうけれど。


この項目、全面的に書き換えました。

後日、原作を読んでみる。
映画以上に無理な部分やありえないことが多かった。
そういった部分を整理して、まとめてみると映画のような設定になるのだろう。
原作では担任教師は最後には主人公側につくことになるのだが、ちょっと設定や成り行きに無理が多い。映画の解釈の方がすっきりするかも。
原作での12年後はこどもたちが医大生を除いてみなが社会人になっているという状況で、生まれた子どもも当時の彼らと同じ年頃になっているということで意味もあるけれど、映画では無理だろう。配役をすべて変えないといけないがそこまでする必要性があるのかどうかも。結果としては映画の方がまとまってよくできていたということ。


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