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映画「華麗なるアリバイ」 [書評・映画評]

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アガサ・クリスティー原作の小説の映画化。
元は名探偵エルキュール・ポワロが登場して殺人事件を解決させる物語なのだが、小説の舞台化にあたって、作者自身が探偵を物語から排除してしまった。その結果、いわゆる「さて……」で始まる事件解決場面が無くなり、純粋に愛憎劇になった。

原作は読んでいない。だいたい推理小説では、登場人物の行動やちょっとした語りや表情などが重要なポイントになるので、イメージを作らないと推理小説にのめり込めないのだが、外国の小説になると、人物名がすべてカタカナになるので、まったくイメージがつかめなかったり、人物関係や、似たような名前で混乱してしまって誰が何をしていたのかがわかりにくい。早い話、男女の違いや年齢などもわからない。日本人だとそうはならないのだが。
映像になると判るかと言えばそうでもなく、男女の違いはわかっても、名前が一致しない。どういう関係になるのかもわからなかったり。個性的な人物はいいのだが、よく似た人物もまざっていたりして。

名探偵が出てこないのもある意味きつい。名探偵は絶対に犯人ではないから、彼に成りきってその視線で物語を見ることが出来るから。探偵がいないと、誰の視線で見ていかないといけないのかがわかりにくい。しかし良い点もあって、一同が集められて説教ばりに推理をひけらかすことがないから、純粋に物語として見ることも出来るし、舞台が固定されずに場所や時間が自由に動き回れる。一体誰が犯人だったのか、という不安も残ってそれが良い印象になったり。物語の流れから、この人物は犯人ではないと言うことがわかってきて安心してその視点で物語をたどることもできたり。

けっこううまく仕組まれた殺人事件ではあるが、原作でどうなっているのか、知りたくもあったが、知らずに純粋に映画の映像で楽しむ方がよいかもしれない。
同じ作者の「そして誰もいなくなった」の場合、原作では登場人物全員死んでしまったのに、舞台化では生き残る人物がでてきて、それを主人公としてその視点で物語を進めていったが、それを元にした映画でもやはり主人公を生き残らせたのがかなり不満だった。全員死ぬという究極のミステリーの根幹が崩されたのだから。そういうケースもあったけれど、今回の場合は、殺される人物は特定なので、変えてしまっても影響は少ない。

舞台が現代になっているから、登場人物が当たり前のように携帯を使っているけれど、そんなのがない時代、どういう方法を使っていたのだろうかと思ったり。まあ携帯がなくても成り立つ時間・空間なのだろうが。

推理小説だけに、誰が殺されて、誰がどういう行動を取っていたかなど、物語の基本になる部分が一切書けない。まあそれは仕方ないことだが。
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