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大河「江 35話」 [見たよ聞いたよ]

関ヶ原の戦いの最大の事件は、小早川秀秋のの裏切りよりももっと重大な事件、
徳川本体である秀忠の遅参である。いくらほとんど初陣とは言え、徳川本体抜きで
天下分け目の戦いをすることになった家康の心境は。

しかし、ここである仮説を考えることも出来る。すなわち、秀忠の遅参は家康の
想定内、いや家康の計算ではなかったかと。

承知のように関ヶ原の戦いは、建前では秀吉のの家臣同士の戦いと言うことに
なっている。事実上では家康が、自身に従う意志のない豊臣恩顧の大名を片付け、
豊臣家臣のうち誰が家康につくのか見極めたということになっている。

しかし、実際の豊臣対徳川の戦いは大坂城での戦いがすべて。これを成し遂げ
なければ家康の時代は決して来ないことを知っている。
ならばどうするか。
あくまで関ヶ原の戦いは、石田三成対反石田連合の戦いと位置づけなければ
ならない。徳川軍が勝ったのではなく、石田三成を倒して豊臣家を守ろうとする
軍団の勝利でなければ家康は暗視して大坂城に乗り込むことは出来ない。

そこでの最大の奇策が、自身の軍団を大幅に縮小してしまうことだった。
これは近くにいる者にしか伝えられない。しかも正当な事情がなければ
誰にも納得されない。そこで考えたのが、徳川軍本隊の上田城釘付け事件。

家康ならば真田家の勇猛ぶりは承知のことだろう。秀忠にはわからない。
だから誰かがこっそり秀忠をたきつければよい。そこで時間をかけずぎて
関ヶ原に間に合わない。そんなシナリオが出来上がっていたのではないか。

もちろん負け戦は秀忠には大きな失態であるが、家康自身負け戦から
這い上がってきた実績がある。負けてこそわかる天下がある。秀忠の
後の第二代将軍の地位はこの時に明らかになったのではないか。

結果は大成功。関ヶ原で勝ったのは、福島正徳や加藤清正、そして小早川秀秋を
はじめとした豊臣恩顧の武将達。家康は堂々と大坂城に入って淀君と対面する
ことができたのだった。徳川が邪魔な石田を倒したのではない。反石田の
武将達に担ぎ上げられて先頭に立ったまで。その証拠に、自分自身の戦力は
ほとんどなかったと。
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